ロゴ
韓国の新たな社会統合政策についての研究
Research for New Social Unification Policy in Korea

Facts

「ネパールの韓国人」

2015年の震災以降、ネパールに居住する韓国人の多くはNGO関係者になったといわれる。韓国内のNGO団体が発展国に職員を派遣することは、社会的企業運営による国際協力が目的である一方で、韓国内の雇用不安の問題を解消へもつながる。派遣された彼ら、彼女らは情報を発信し、韓国と在留地を繋ぐ。

韓国のカフェ人気と国際貢献がリンク:
「Beautiful Coffee Nepal」

「Beautiful Coffee Nepal」クォンユソン氏

「Beautiful Coffee Nepal」とクォンユソン氏

写真 : 「Beautiful Coffee Nepal」とクォンユソン氏

 「Beautiful Coffee Nepal」はKOICAの支援に加え、韓国内でのファンドレイジングによる資金をもとに設立された。2105年にはマーケッティングプラットホームを担うネパールセンターの運営も開始した。(注1)公益法人「beautiful coffee Korea」とパートナー契約を結ぶネパールのローカルな社会的企業だ。プランテーションによるコーヒー栽培が進んでいる他地域に比べ、ネパールでのコーヒー栽培の歴史はまだ浅く資金力も弱い。生産力向上とエンパワーメントに奮闘するジェネラルマネージャーのクォン・ユソン氏に事業内容と動向をお聞きした。

質問:ネパールでのコーヒー栽培の現況を聞かせてください。

「Beautiful Coffee Nepal」のパートナー)

写真 : 「Beautiful Coffee Nepal」のパートナー)

 ネパールは75の県を持つがそのうちコーヒー栽培事業を行っているのは43県。問題は他の国が体系的な生産方法を持つのに対し、ネパールの場合はそうしたノウハウが成熟していないことに加え、コーヒーがその県の主産物として考えられていないため、作業にムラがあることである。また、質という点でも味が単調で大きさも小さ目だ。間に植える木や間隔、また協同組合にも意識転換を促し生産量、質ともに向上し流通がさかんになることで、こうした問題は解決されると考え、目下活動中だ。

質問:クォンさんは「Beautiful Coffee Korea」からの派遣ということですが、何故ネパールを希望されたのですか? また、「Beautiful Coffee Korea」の活動内容をご教示ください。

15年前の大学時代からNGOの活動をしていた。卒業前にはインドの国境地域、卒業してからはモンゴルでも2年間、また、政策監視のNGOでも活動した後に社会的企業へと活動の場を移した。
 パールに来てからは3年3か月たつが、きっかけは2015年の地震。韓国内で販売ラインの生産地域である業務パートナーが大きな被害を受けて、「Beautiful Coffee Korea」でも何かしなくてはならないということで、私が派遣された。当初は6ヶ月の予定だったが、ネパールでの活動に興味を持ち、「Beautiful Coffee Nepal」での活動を希望した。3年の予定だが、帰国は栽培農家が自立し、業務を引き渡した後になるだろう。

販売中のコーヒー

写真 : 販売中のコーヒー

 「Beautiful Coffee Korea」は韓国で初めてフェアトレードを開始した公益法人だ。パートナーが生産したコーヒーは、基本的には「Beautiful Coffee Nepal」が買い取り、「Beautiful Coffee Korea」で販売している。
 ネパールのヒマラヤ、ペルーのアンデス、ウガンダという形で地域によってギフトセットのシリーズ化を行い実店舗での小売やネット販売を行っている。 韓国内では4カ所(京福宮店、壇国大学店、世宗店、昌徳宮店)に実店舗のカフェを経営、オンライン販売に加え、韓国内でフェアトレードを広げる活動を展開している。フェアトレードに賛同する新規参入のカフェオーナーにコーヒー豆の卸売販売も行っている。
 産地はネパール以外にインドネシア、ペルー、ルワンダなどでコーヒー、カカオを生産している。ルワンダを次の開発地として準備中だ。ルワンダはコーヒー栽培には定評があるが、市場に問題がある。コーヒー農家は売れれば売れるほど搾取されるシステムに陥っている。そうした負のスパイラルを絶ちフェアトレードへ移行することが事業の目的だ。ネパールの場合は品質向上から市場開拓まですべてをおこなわなければならないが、ルワンダの場合は市場開拓だけなので事業も迅速に進められる見込みだ。

質問:「Beautiful Coffee Nepal」の事業内容をご教示ください。

ネパールのバリスタ大会チャンピオン写真左

写真 :(左) ネパールのバリスタ大会チャンピオン

 事業の根幹はコーヒー生産とフェアトレードをとおしてネパールの経済発展を支援することだ。
 まずここ、「Beautiful Coffee Nepal」は単純にカフェというよりは生産者と消費者が出会う空間というコンセプトで運営されている。ネパール国内には自分のブランドを持つ産地が複数あるにも関わらず、交通網が発達していないため、農園までは車で4~5時間もかかり、生産者がどのような環境でコーヒーを栽培しているのか消費者は想像もつかない。生産者や協同組合はコーヒーを栽培することで手いっぱいで市場開拓までは行きつかない。生産者がネパールセンターのマーケッティングプラットホームの空間を利用し、販路を開拓できるよう努力している。
 実はネパール国内ではコーヒー文化はあまり浸透していない。国内の人々もカフェを通じてコーヒーに自然に接することができれば需要が伸びるはずだ。コーヒー文化発展のための事業としては、ネパール人のバリスタ育成や、ギフトセット販売等を行っている。
 また、2015年の震災では、被災したシンドゥ・パルチョークの農家が貯蔵庫に蓄えてあったコーヒー豆を利用して家庭用セットを作りソウルで販売し、売り上げの30パーセントをシンドゥ・パルチョーク地域の復興支援にあてるなどの事業も行った。コーヒー研究という点でも、不良豆の再利用の方法、従来と異なる飲み方、有機農生産など、コーヒー産業の発展に資することなら選ばずに様々なことを試しているところだ。

質問:フェアトレードというと品質に比べ単価が高いというイメージですが。

この事業で重要なのは生産者と信頼をとおしてパートナーシップを築くことだ。  コーヒーにはアラビカ種とロブスタ種の二種類ある。アラビカ種はニューヨーク取引所で、ロブスタ種はロンドン取引所で扱われるが価格が上下する。これに対しフェアトレードでは生産者保護のために適正価格を遵守し取引価格を調整する。指摘のように、質に対し単価が大変に高いという問題点はある。値段を味に合わせなければならないのではないかという人もいるが、我々の考えは価格を下げることより、価格に見合う質の向上を目指すことに重点を置いている。実際に売れない場合もあるが価格を下げると生産者の手に残るものがなくなる。ネパールは生産量も少ないために価格を下げるなら生産自体をしない方が良いということになりかねない。 事業は生産者の生活の質の向上のための支援だ。例えば地震などで生産が停止や、品質低下によって一般の市場取引であれば購入先を変更するだろうが、我々はパートナーが困っているならとむしろ支援するというスタンスだ。

質問:生産の現場についてご教示ください。

コーヒーはパーチメントの状態から収穫できるまで4~5年かかる。その間の収入が問題になるが、ロスを最小限に抑えるために、幼木を現地に調達して植樹することから始めた。最初のパートナーとなったのがグルミ(Gulumi)で、現在はシンドゥ・パルチョーク(Sindhupalchok)の二カ所とパートナー契約を結んでいる。
 グルミは1945年にネパールで最初にコーヒー栽培が始められた地域でネパールコーヒー発祥の地としてプライドを持っている。ゴルカ傭兵(GOLKA)がミャンマーに派遣された時に持ち帰ったコーヒーの種を植えたのがきっかけだ。シンドゥ・パルチョークの場合はコーヒー栽培の歴史はまだ浅くまだ7~8年に過ぎない。ある日、シンドゥ・パルチョークの共同組合側からBeautiful Coffeeに支援要請の申し出があり事業が開始した。2015年の地震被害が大きかったが現在は回復している段階だ。
 南米やアフリカなどの大規模栽培では機械が実の色を認識して収穫を行うが、ネパールでは資本不足の為に機会が調達できず収穫は人々が手で行っている。

栽培されているコーヒー豆

写真 : 栽培されているコーヒー豆

 農夫の方々が収穫したものは地域の組合に持ち込まれ、パルピング(Pulping:実と皮を取り除き種だけにする作業)する。ネパールの協同組合法では一地域一組合と規定されており、それを統括する中央協同組合がある。最初は中央協同組合に実が持ち込まれパルピングしていたが、コスト削減のために各地域の協同組合にパルピング機を提供した。コーヒーはパルピング後に洗浄し乾かすが、ここまでを地域の協同組合が行った後、脱穀(Hulling)は中央協同組合で行い生のコーヒー豆が生産される。この後14名の女性が二週にわたって不良豆を取り出し、ようやく海外市場に輸出される。ロースティングの機械を持っている地域ではそこでコーヒー豆にすると国内市場でも販売ができる。
 フェアトレードが一般の貿易と異なる点は、これらの作業が費用前払いで行われていることである。こうすることで農夫の人たちの抱える問題を早期に解決できる。

持続可能なネパールの経済発展のためのコーヒー栽培に挑戦

国際サラン奉仕団地区長
NGO協議会会長
徐恩植氏

徐恩植氏

写真 : 徐恩植氏

 「Beautiful Coffee Nepal」がフェアトレードによってコーヒー栽培農家を支援する事業であれば、徐恩植氏は国際市場での競争力を培うことがネパールの持続可能な発展につながると考える。
 徐恩植氏は国際サラン奉仕団地区長であり、NGO協議会(韓国人の代表の団体の集まりであるNGOの協議会:登録団体数は25団体)の会長を務める。教会の宣教師として来訪したのが1998年8月、その後はNGO活動を続けながら現在に至り、2018年末にはネパールの地方農村がコーヒー取引の国際事業で競争力をもち経済的に自立できるよう、自ら活動の拠点を家族とともに地方農村へ移し農園経営を始める予定だ。
 来訪当初、ネパールに在留していた韓国人はわずか50∼100名程度。宣教師と大使館駐在員、国際協力で派遣された人々で占められていた。長期在留者は宣教師であったが宣教に対する認識の違いから多くは帰国したという。20年にわたるネパールでの生活と今後の活動についてお聞きした。

質問:ネパールにいらっしゃるきっかけは?

最初は宗教的なベースで人道支援を2年ほど考えていた。外国は初めてだったので一年くらいは現地の文化や言葉を学び、もう一年は支援活動をするつもりだった。ネパールを選んだ理由は単純だ。派遣先の選択肢がネパール以外になかったからだ。場所がどこかは関係なく、奉仕活動をする事が目的だった。 在留が長期化した理由は人手が圧倒的に不足していたことだ。所属する団体では行政支援の行き届かない、車で19時間、行くのに一泊二日かかる東側の地域で自立支援活動を行っていた。あらゆる地方を回ったが、その地域は特に行政の管理が行き届かず、支援の必要性を感じた。人々も純朴で、人懐こい。助けられるなら助けたいと思った。東側のこの地域で学校の責任者として来てほしいと言われたので長期在留することになった。  

質問:ネパールにいらして20年、ネパールはどのように変わりましたか?

20年前は車もなく、カトマンズ市内でも午後7時を過ぎると人がいなくなった。はだしで歩く人も多かった。地方部ではもっとひどい。今は午後9時でも明かりが煌煌とついて多くの店が営業している。服装も変わった。生活様式自体が変わった。今後も高速で変わるだろう。
 6~7年前は高速インターネットがなく、モデムを使っていた。速度も遅かった。テレビ番組のダウンロードに2日係かかる程度。5年ほど前から高速になり、携帯電話でもドラマがダウンロードできるようになった。
以前はヒンドゥーの閉鎖的な文化だったが、インターネットの普及で若い人のリテラシー能力が向上した。国際的な出稼ぎ労働情報などが良い例だ。ネパールは労働者送出国だ。マレーシアだけでも100万、インド、ドバイはその倍、かつてはブローカーが出稼ぎ先を斡旋していたが、最近はインターネットを通じて情報を得ることができる。賃金の安いマレーシアを避け、勉強しながら学べる日本などが人気だ。それ以外ではヨーロッパ、韓国など。彼らのお金はいずれにしてもネパールに送金されるので経済発展の助けになっている。
 ネパールはカトマンズを少し離れれば、まだ家畜と一緒に住むような生活だ。家族や民族コミュニティの結束が強いので、外国に出稼ぎにいっても大部分は戻ってくる。そういう人のうちの何人かでも故国の発展のためにつくす人が出てくればネパールも変わるだろうと思う。

質問:韓国人のNGO活動についてお話下さい。

韓国人も増えた。NGO協議会には25団体が協議会に登録されている。NGO関連の人は50名程度。ローカルNGOは多いが国際NGOとしては他国よりは韓国からたくさん来ているといえる。NGO活動でもっとも効果的だったのは教育に関する事業だ。ジェンダー、や女性のエンパワーメントはぶつかることが多いが、教育は村の人々との摩擦が少ない。
 2005年から数年間100キロほど離れた田舎の保健所でも仕事をした。何もないのでヘルスサポートから行ったが、400ドル程度の資金でインドや周辺国から基礎的な医薬品を村の人のために調達し常備した。2009年ころまで続けたが今は1時間程度のところに政府が運営するヘルスサポートセンターができたのでやめることになった。
 近くに公立学校があったが2015年の震災で建物が被災した。韓国にある会社が被災先のどこかに支援したいというので、この地域へ橋渡しをした。昨年の6月に学校をたてなおしてもらった。
 この地域で14年間仕事をしてきた。コンピューター、黒板、奨学金支給など少しずつだが支援をしてきた。自分の所属団体は地震で被災した建物をすぐに建て直せるほどの財源がなかった。できる限りは尽くして子どもの勉強だけは出来るようにしたが、心が痛かったところに良い機会に恵まれた。昨年に工事をはじめ今年竣工し授業が始まっている。
 そして自分自身も今年中に(2018)家族を連れてその村に住むつもりにしている。子どももその学校に通うつもりだ。その地域の所得創出活動をしようと思っている。その町の農家が収入を得て少しでも豊かになるように。

質問:具体的にはどのような活動ですか?

イメージ写真

写真 : Organic Coffee

 目的ははっきりしている。所得創出の基盤を固くすることだ。脆弱な体制を立て直すために必要なことを行い、所得を徐々に伸ばしていき、最終的には自分たちで必要なものを調達できる体制を作る。
 この間その村で色々と試みてきた。牛乳をやってみたが、牛乳は運搬が難しい。加工施設設備投資にお金がかかる。殺菌、パッキング、生産量が施設をつくるほどに追いつかない。だから駄目だ。また、2年ほど前に東の山岳地域で政策主導のオレンジ栽培を始めたが豊作で商人に買いたたかれ、売れば売るほど損するので、売らなかったらオレンジが腐って使い物にならなくなったというような新聞報道があった。
 行きついたのがコーヒーだ。三年前に農園にまいた種が育って実をつけている。これまではカトマンズとその村を行ったり来たりしながら育ててきた。だが人任せにしているといざという時に意思決定が遅れる。雨期になると道が断絶して簡単に往来ができない。それで思い切って村に住むことに決めた。

質問:思い切った決断ですね。ご決断のきっかけは?

ネパール山岳部

写真 : ネパール山岳部

 決断の最大の理由は自分の農園であれば価格決定が自分でできることだ。
 ネパールのコーヒー価格はワールドマーケットの取引と比較して大変に高い。同業者はとても買えない。その理由はネパールのコーヒー栽培の発端が国際援助活動から始まっているためだ。支援団体が入ってフェアトレードによって取引されることでコーヒー価格が年々上昇してきた。いまさら引き下げられないのが現状だ。これまでは生産量が少ないことと確実な販路が確保されていたので何とかなったが、問題は質の割には価格が高いということだ。簡単に稼げると思い参入するが、思った価格での販路が開拓できず木を抜いてしまうケースもある。
 3年前に農場をつくった。今年は実がつき始めた。一番良い商品は韓国に、望む価格で送る。残りはロースティング後に包装して、破格的な価格で売る。自分が価格を決定するとは言っても、適当だと思える価格にする。これを村に広げることができればと考えている。

質問:どのような村なのですか?

私が住む予定の村は大変な片田舎だ。住戸数が25件しかない。そこから5分距離のところに10件余り、そこからまた10分いけば数件、というようなところだ。その人達には本当に何もない。どこかからファンドを受けて一時的に何かをしてもその後の管理体制が整っていないために後が続かない。続けて何かできる基盤を作るのが目的だ。

質問:コーヒーの栽培については村の方々も協力的なのですか?

村の人に説明をしても理解しても納得はしてくれていないのが実情だ。村の人は実がつくまでの3年の投資への勇気がわかないようだ。うまくいかなかったときのことを考えると当然だろう。従来どおり米を植えれば収入が少なくとも確実に収穫ができる。コーヒーは未知だ。失敗するかもしれない。なぜなら多くの地域でコーヒーを植えているがうまく育っても最初に考えていた価格で売れないことが起きている。やむなく苦労して育てたコーヒーの木を抜き、実用的な作物栽培に戻ることがネパールの各所で20年間続いている。
 私はこの地域で費用を負担して種を調達してきた。だが多くは米を植えて残った場所にコーヒーが育つ条件を考えずに植えていた。そうなるとうまく育たない。ただ人によっては自分の家の庭やうまく条件がそろった場所に偶然に植えていた場合もあった。そういう所は収入につながった。一つの木に平均約10~13キロ程度の実がなるが、うまく行ったところは40キロの収穫があった。
 私が実際に行こうと決め自費で農園を作ったのは、これくらい栽培するとこれくらいの収入になるというのを見せることが目的だ。実際に見れば、自分たちで自由に自発的に決定してくれるのではないかと考えている。村で私が直接に本気で仕事をする姿や本当に稼げるということを見せることで、農家の人もモチベーションが上がり、信頼も築ける。 もし、稲作からコーヒー栽培へ切り替われば、コーヒーは実がつくまで3~4年かかるので、その間に私は私で販路を開拓するつもりだ。

質問:販路の開拓をどのように構想されていますか?

政治家とも話をしたことがあるが、ネパールの農村で外貨を手早く稼げるのはコーヒーしかない。ただネパールのコーヒーの一般市場のシェアは小さく、取引の多くがフェアトレードであるために高く売ることに慣れてしまっている。高い価格で買ってくれる人は、最初は奉仕の気持ちで買ってくれる。だが毎回毎回という訳には行かない。競争できる価格で勝負しなければならない。
 フェアトレードだと8ドル、一般市場ではこの価格では売れないが6ドルだったら売れるとしよう。これだと売れても売れなくても問題になる。なぜなら6ドルで売った後で、8ドルでも売れたのにとなった時にジレンマが起きるからだ。もし一般市場で村の人のつくったコーヒーを6ドルで売ったら、私は悪人になるだろう。だから自分でコーヒー栽培をする事に決め、自分で価格設定をできるようにしたのだ。
 コーヒーは手がかかるがネパールの農村には適した作物だ。コーヒーの消費者は急激に増えている。生産量は温暖化のために減少している。だからといって、価格を吊り上げて、期待値を高めるだけでは稼ぐことだけに焦点が当たり無理がくる。
また、販路開発とはいっても分量が限られる。生産量が100まではよいが150になると50余るということだ。そうなると、村の中で、売れる人と売れない人が生まれてくる。フェアトレードで無い、一般市場での取引で安定的に取引を継続するためには生産量の調節も大切だ。だから販路を広げながら、生産量を徐々に増やすというのが現実的だろう。
 一旦は私が主導的に行なうが、もし村の人から手を組もうと言ってきたらその時はよろこんで協同するつもりだ。村の人が私を利用しようと望む時を気長に待つつもりだ。

PAGE TOP