「ネパールの韓国人」
2015年の震災以降、ネパールに居住する韓国人の多くはNGO関係者になったといわれる。韓国内のNGO団体が発展国に職員を派遣することは、社会的企業運営による国際協力が目的である一方で、韓国内の雇用不安の問題を解消へもつながる。派遣された彼ら、彼女らは情報を発信し、韓国と在留地を繋ぐ。
2015年の震災以降、ネパールに居住する韓国人の多くはNGO関係者になったといわれる。韓国内のNGO団体が発展国に職員を派遣することは、社会的企業運営による国際協力が目的である一方で、韓国内の雇用不安の問題を解消へもつながる。派遣された彼ら、彼女らは情報を発信し、韓国と在留地を繋ぐ。
写真 : 「Beautiful Coffee Nepal」とクォンユソン氏
質問:ネパールでのコーヒー栽培の現況を聞かせてください。
写真 : 「Beautiful Coffee Nepal」のパートナー)
質問:クォンさんは「Beautiful Coffee Korea」からの派遣ということですが、何故ネパールを希望されたのですか? また、「Beautiful Coffee Korea」の活動内容をご教示ください。
15年前の大学時代からNGOの活動をしていた。卒業前にはインドの国境地域、卒業してからはモンゴルでも2年間、また、政策監視のNGOでも活動した後に社会的企業へと活動の場を移した。
パールに来てからは3年3か月たつが、きっかけは2015年の地震。韓国内で販売ラインの生産地域である業務パートナーが大きな被害を受けて、「Beautiful Coffee Korea」でも何かしなくてはならないということで、私が派遣された。当初は6ヶ月の予定だったが、ネパールでの活動に興味を持ち、「Beautiful Coffee Nepal」での活動を希望した。3年の予定だが、帰国は栽培農家が自立し、業務を引き渡した後になるだろう。
写真 : 販売中のコーヒー
質問:「Beautiful Coffee Nepal」の事業内容をご教示ください。
写真 :(左) ネパールのバリスタ大会チャンピオン
質問:フェアトレードというと品質に比べ単価が高いというイメージですが。
この事業で重要なのは生産者と信頼をとおしてパートナーシップを築くことだ。 コーヒーにはアラビカ種とロブスタ種の二種類ある。アラビカ種はニューヨーク取引所で、ロブスタ種はロンドン取引所で扱われるが価格が上下する。これに対しフェアトレードでは生産者保護のために適正価格を遵守し取引価格を調整する。指摘のように、質に対し単価が大変に高いという問題点はある。値段を味に合わせなければならないのではないかという人もいるが、我々の考えは価格を下げることより、価格に見合う質の向上を目指すことに重点を置いている。実際に売れない場合もあるが価格を下げると生産者の手に残るものがなくなる。ネパールは生産量も少ないために価格を下げるなら生産自体をしない方が良いということになりかねない。 事業は生産者の生活の質の向上のための支援だ。例えば地震などで生産が停止や、品質低下によって一般の市場取引であれば購入先を変更するだろうが、我々はパートナーが困っているならとむしろ支援するというスタンスだ。
質問:生産の現場についてご教示ください。
コーヒーはパーチメントの状態から収穫できるまで4~5年かかる。その間の収入が問題になるが、ロスを最小限に抑えるために、幼木を現地に調達して植樹することから始めた。最初のパートナーとなったのがグルミ(Gulumi)で、現在はシンドゥ・パルチョーク(Sindhupalchok)の二カ所とパートナー契約を結んでいる。
グルミは1945年にネパールで最初にコーヒー栽培が始められた地域でネパールコーヒー発祥の地としてプライドを持っている。ゴルカ傭兵(GOLKA)がミャンマーに派遣された時に持ち帰ったコーヒーの種を植えたのがきっかけだ。シンドゥ・パルチョークの場合はコーヒー栽培の歴史はまだ浅くまだ7~8年に過ぎない。ある日、シンドゥ・パルチョークの共同組合側からBeautiful Coffeeに支援要請の申し出があり事業が開始した。2015年の地震被害が大きかったが現在は回復している段階だ。
南米やアフリカなどの大規模栽培では機械が実の色を認識して収穫を行うが、ネパールでは資本不足の為に機会が調達できず収穫は人々が手で行っている。
写真 : 栽培されているコーヒー豆
写真 : 徐恩植氏
質問:ネパールにいらっしゃるきっかけは?
最初は宗教的なベースで人道支援を2年ほど考えていた。外国は初めてだったので一年くらいは現地の文化や言葉を学び、もう一年は支援活動をするつもりだった。ネパールを選んだ理由は単純だ。派遣先の選択肢がネパール以外になかったからだ。場所がどこかは関係なく、奉仕活動をする事が目的だった。 在留が長期化した理由は人手が圧倒的に不足していたことだ。所属する団体では行政支援の行き届かない、車で19時間、行くのに一泊二日かかる東側の地域で自立支援活動を行っていた。あらゆる地方を回ったが、その地域は特に行政の管理が行き届かず、支援の必要性を感じた。人々も純朴で、人懐こい。助けられるなら助けたいと思った。東側のこの地域で学校の責任者として来てほしいと言われたので長期在留することになった。
質問:ネパールにいらして20年、ネパールはどのように変わりましたか?
20年前は車もなく、カトマンズ市内でも午後7時を過ぎると人がいなくなった。はだしで歩く人も多かった。地方部ではもっとひどい。今は午後9時でも明かりが煌煌とついて多くの店が営業している。服装も変わった。生活様式自体が変わった。今後も高速で変わるだろう。
6~7年前は高速インターネットがなく、モデムを使っていた。速度も遅かった。テレビ番組のダウンロードに2日係かかる程度。5年ほど前から高速になり、携帯電話でもドラマがダウンロードできるようになった。
以前はヒンドゥーの閉鎖的な文化だったが、インターネットの普及で若い人のリテラシー能力が向上した。国際的な出稼ぎ労働情報などが良い例だ。ネパールは労働者送出国だ。マレーシアだけでも100万、インド、ドバイはその倍、かつてはブローカーが出稼ぎ先を斡旋していたが、最近はインターネットを通じて情報を得ることができる。賃金の安いマレーシアを避け、勉強しながら学べる日本などが人気だ。それ以外ではヨーロッパ、韓国など。彼らのお金はいずれにしてもネパールに送金されるので経済発展の助けになっている。
ネパールはカトマンズを少し離れれば、まだ家畜と一緒に住むような生活だ。家族や民族コミュニティの結束が強いので、外国に出稼ぎにいっても大部分は戻ってくる。そういう人のうちの何人かでも故国の発展のためにつくす人が出てくればネパールも変わるだろうと思う。
質問:韓国人のNGO活動についてお話下さい。
韓国人も増えた。NGO協議会には25団体が協議会に登録されている。NGO関連の人は50名程度。ローカルNGOは多いが国際NGOとしては他国よりは韓国からたくさん来ているといえる。NGO活動でもっとも効果的だったのは教育に関する事業だ。ジェンダー、や女性のエンパワーメントはぶつかることが多いが、教育は村の人々との摩擦が少ない。
2005年から数年間100キロほど離れた田舎の保健所でも仕事をした。何もないのでヘルスサポートから行ったが、400ドル程度の資金でインドや周辺国から基礎的な医薬品を村の人のために調達し常備した。2009年ころまで続けたが今は1時間程度のところに政府が運営するヘルスサポートセンターができたのでやめることになった。
近くに公立学校があったが2015年の震災で建物が被災した。韓国にある会社が被災先のどこかに支援したいというので、この地域へ橋渡しをした。昨年の6月に学校をたてなおしてもらった。
この地域で14年間仕事をしてきた。コンピューター、黒板、奨学金支給など少しずつだが支援をしてきた。自分の所属団体は地震で被災した建物をすぐに建て直せるほどの財源がなかった。できる限りは尽くして子どもの勉強だけは出来るようにしたが、心が痛かったところに良い機会に恵まれた。昨年に工事をはじめ今年竣工し授業が始まっている。
そして自分自身も今年中に(2018)家族を連れてその村に住むつもりにしている。子どももその学校に通うつもりだ。その地域の所得創出活動をしようと思っている。その町の農家が収入を得て少しでも豊かになるように。
質問:具体的にはどのような活動ですか?
写真 : Organic Coffee
質問:思い切った決断ですね。ご決断のきっかけは?
写真 : ネパール山岳部
質問:どのような村なのですか?
私が住む予定の村は大変な片田舎だ。住戸数が25件しかない。そこから5分距離のところに10件余り、そこからまた10分いけば数件、というようなところだ。その人達には本当に何もない。どこかからファンドを受けて一時的に何かをしてもその後の管理体制が整っていないために後が続かない。続けて何かできる基盤を作るのが目的だ。
質問:コーヒーの栽培については村の方々も協力的なのですか?
村の人に説明をしても理解しても納得はしてくれていないのが実情だ。村の人は実がつくまでの3年の投資への勇気がわかないようだ。うまくいかなかったときのことを考えると当然だろう。従来どおり米を植えれば収入が少なくとも確実に収穫ができる。コーヒーは未知だ。失敗するかもしれない。なぜなら多くの地域でコーヒーを植えているがうまく育っても最初に考えていた価格で売れないことが起きている。やむなく苦労して育てたコーヒーの木を抜き、実用的な作物栽培に戻ることがネパールの各所で20年間続いている。
私はこの地域で費用を負担して種を調達してきた。だが多くは米を植えて残った場所にコーヒーが育つ条件を考えずに植えていた。そうなるとうまく育たない。ただ人によっては自分の家の庭やうまく条件がそろった場所に偶然に植えていた場合もあった。そういう所は収入につながった。一つの木に平均約10~13キロ程度の実がなるが、うまく行ったところは40キロの収穫があった。
私が実際に行こうと決め自費で農園を作ったのは、これくらい栽培するとこれくらいの収入になるというのを見せることが目的だ。実際に見れば、自分たちで自由に自発的に決定してくれるのではないかと考えている。村で私が直接に本気で仕事をする姿や本当に稼げるということを見せることで、農家の人もモチベーションが上がり、信頼も築ける。
もし、稲作からコーヒー栽培へ切り替われば、コーヒーは実がつくまで3~4年かかるので、その間に私は私で販路を開拓するつもりだ。
質問:販路の開拓をどのように構想されていますか?
政治家とも話をしたことがあるが、ネパールの農村で外貨を手早く稼げるのはコーヒーしかない。ただネパールのコーヒーの一般市場のシェアは小さく、取引の多くがフェアトレードであるために高く売ることに慣れてしまっている。高い価格で買ってくれる人は、最初は奉仕の気持ちで買ってくれる。だが毎回毎回という訳には行かない。競争できる価格で勝負しなければならない。
フェアトレードだと8ドル、一般市場ではこの価格では売れないが6ドルだったら売れるとしよう。これだと売れても売れなくても問題になる。なぜなら6ドルで売った後で、8ドルでも売れたのにとなった時にジレンマが起きるからだ。もし一般市場で村の人のつくったコーヒーを6ドルで売ったら、私は悪人になるだろう。だから自分でコーヒー栽培をする事に決め、自分で価格設定をできるようにしたのだ。
コーヒーは手がかかるがネパールの農村には適した作物だ。コーヒーの消費者は急激に増えている。生産量は温暖化のために減少している。だからといって、価格を吊り上げて、期待値を高めるだけでは稼ぐことだけに焦点が当たり無理がくる。
また、販路開発とはいっても分量が限られる。生産量が100まではよいが150になると50余るということだ。そうなると、村の中で、売れる人と売れない人が生まれてくる。フェアトレードで無い、一般市場での取引で安定的に取引を継続するためには生産量の調節も大切だ。だから販路を広げながら、生産量を徐々に増やすというのが現実的だろう。
一旦は私が主導的に行なうが、もし村の人から手を組もうと言ってきたらその時はよろこんで協同するつもりだ。村の人が私を利用しようと望む時を気長に待つつもりだ。